UNICEF75周年:UNICEF親善大使 黒柳徹子さんインタビュー「関心を持つこと、人のことを思いやること」
2021年12月28日 東京発
2021年12月28日 東京発
1946年12月11日、UNICEFは第二次世界大戦後の歴史的な危機の中、戦争の影響を受けた子どもたちに人道支援を行うために誕生しました。それから75年、子どもたちを取り巻く環境は大きく変わりましたが、UNICEFは人道支援や開発支援の最前線で、世界中の子どもたちの命と権利を守るため、絶え間なく活動を続けています。
UNICEFの75年にわたるストーリーは、UNICEFが支援する子どもたちの物語、そして、子どもたちのために、UNICEFと一緒に活動してきた人々の物語でもあります。
黒柳徹子さんも、UNICEFと共に歴史を刻み、親善大使としてUNICEFのミッションを支え続ける大切なパートナーの一人です。黒柳さんは1984年にUNICEF親善大使に就任して以来、約40の国と地域を訪れ、子どもたちの声を代弁してきました。最も弱い立場に置かれる子どもたちのために寄り添い続ける黒柳さんもまた、子どもの頃に戦争を経験し、困難な幼少期を乗り越えてきました。

「戦争が始まったのは、小学校2年生の頃ですかね。」黒柳さんが語ります。「お米とかそういうものは何もありませんでしたから、本当に飢え死にするぐらい困っていました。」
戦争中、子どもたちを襲ったのは、空腹だけではありませんでした。「(空襲があったので)夜は本当に寝られないぐらい。うちは燃えませんでしたけれど、近所が燃えて空が真っ赤になるのが庭にいても見えるぐらいで、とても恐ろしいことでした。毎日が不安で、『行って参ります。』と家を出るときにも、『家に帰ってきたら家はないかもしれないし、両親は死んでいるかもしれない…。』そういう不安はずっとありました。本当に、二度とああいう思いを子どもたちにさせたくありません。」
黒柳さんが親善大使としてUNICEFに協力することを決意するきっかけとなったのが、UNICEFが第二次世界大戦後に日本の子どもたちに行った支援でした。「UNICEFはですね、戦後に日本が本当に食べ物がなかったときに粉ミルクをたくさんくださったというのは有名な話でしたので、私はそのことは知っていました。」黒柳さんが語ります。
UNICEFは1949年、食べるものが十分になかった日本の子どもたちのために学校給食を通じて脱脂粉乳の配布を始め、推定150万人の子どもたちが脱脂粉乳の支援を受けたと言われています。その他にも、赤ちゃんや母親の栄養を改善するための支援や、医療器材や毛布、医薬品などの支援物資の配布も行われました。UNICEFの日本の子どもたちへの支援は、第1回東京オリンピックが開催された1964年まで、15年間続きました。
「親善大使にっていうお話があったときに、あれだけ敵も味方もなく子どもたちに粉ミルクをたくさんくださったUNICEFだったら、何かできることがあったら、親善大使の仕事でも何でも手伝わせて頂きたいと思って、すぐにお引き受けしました。」

黒柳さんは、UNICEF親善大使として自ら困難な状況下で暮らす子どもたちのもとへ足を運び、紛争や自然災害、貧困など、困難な状況に置かれた子どもたちの問題に光を当ててきました。
世界各地のUNICEFの支援現場を訪れた黒柳さんは、「UNICEFの方たちが本当に地の果てのようなところでも働いていらっしゃるのを見ました。子どもたちのためにこんなに一生懸命働いているUNICEFは素晴らしいと思いました。だから、UNICEFのためにできることがあったら、何でもしようと、いつも思っています。」と話します。
世界のUNICEF親善大使の中で最も長い間、子どもたちのための活動を続けている黒柳さん。原動力は、世界の不公平をなくし、世界中の子どもたちが明日のことを心配する必要なく、生きていけるようになってほしいという想いだと語ります。
これまでの取り組みや支援によって、多くの子どもたちの命や生活が守られてきた一方、新型コロナウイルス感染症や気候変動、貧困など、世界は依然として数々の危機に直面しています。そして、これらの影響を最も受けているのが、弱い立場に置かれる子どもたちです。
未来を担う子どもたちのためにより良い世界を築いていくには、私たち一人ひとりに今、何ができるのでしょうか。
「例えば飢えている子どもがいると聞いたら、そういうことに関心を持つというようなこと。やっぱり、人のことを思いやることじゃないでしょうかね。」
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UNICEFは創設75周年を迎えるにあたり、これまでの成果や課題から学び、未来を見据え、すべての子どもの権利の実現に向けて、子どもたちのための未来を再創造していきます。
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